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事件記者[報道癒着]

事件記者[報道癒着] 第12章(その3)最終章 「報道癒着」

著:酒井直行/原案:島田一男



第12章 (その3)
最終章 「報道癒着」

 中野区中野。東京警察病院8階の医療スタッフ優先用エレベーターが開き、薄緑色の手術着を身につけた男性が降り立つ。頭には頭髪飛散防止用キャップを被り、口元には大きなマスクをしているため、人相は男性という以外は全く判別できない。
 オペ服を着た彼は薄暗い病棟の廊下をゆっくりと歩いていく。通常は使われていない空気感染対策専門の隔離病棟だけあって、人の気配がまるでない。そして森から電話で教わった病室番号の前に立つと、大きく深呼吸をした。手術用の手袋をしたその手にはピアノ線が握りしめられていた。医者に変装した市村キャップだった。
 今朝、森に電話した直後、彼から改めて連絡があった。そして、セキュリティの面とマスコミ対策のため、意識を回復した岩見が、空気感染隔離病棟のこの病室に移送されている事実を聞かされた。そして岩見を殺せと命じられた。
 市村はスライドドアのドアノブに手をかけ、音もなく病室へと入っていく。
 しかし。
 中に入ると、市村は強い違和感を感じた。そこは空っぽの部屋だった。窓すらなかった。いや、窓がないのは、ここが空気感染隔離専門の病室であることからすぐに理解できたが、問題はベッドすらなかったことである。がらんどうの中、市村は慌ててスライドドアに手をかける。
 開かない。ドアが動かない。
 バカな。閉じ込められた? 外から鍵がかかっているようだ。
 その時になって初めて、シューというノイズが部屋の隅から聞こえてくるのに気がついた。慌てて駆け寄ると、そこには細長いグレーのガスボンベが3本も並んで置かれてあった。ボンベには大きく「医療用窒素ガス」と書かれてある。
 問題はガスボンベのバルブ部分である。3本とも、本来ならついているはずの噴出量を調整するハンドルが見当たらない。取り外されている。つまりガスが出っぱなしになっているのだ。
 市村はこれまでの新聞記者経験を必死に思い出していた。
 窒素ガスは無味無臭の無毒性ガスである。ガスそのものに毒性はないが、酸素を含んでいないため、窒息死する可能性がある。
 かつて、経験未熟な看護師が、窒素ガスボンベを酸素ボンベと間違って人工呼吸器患者に接続し、窒息死させた事件を取材したことを市村は思い出していた。
「やばいっ」
 市村は叫んだ。すでに大量の窒素ガスを吸気しているため、息が荒くなってくる。
 換気扇のスイッチを探す。だが病室の壁に、それらしきスイッチは存在しなかった。
市村は、このフロア全体が空気感染隔離病棟だということを今更ながらに思い出し、舌打ちする。空気感染隔離病室は、0.05マイクロメートルという極小ウイルスも外に漏れ出すことがないよう密閉対策が取られている。換気や通気はコントロールルームからしか操作できないはず。病室に換気扇のスイッチがあるはずがなかった。
 もう一度、この部屋からの脱出を試みる。ドアを叩く。しかし鍵がかかっていて出られない。ならばガスの噴出を止めるしかない。慌てて手術着を脱ぎ、それらをガスボンベの噴出口に突っ込もうとするが、勢いの方が強くて、ガスは止まる様子がない。
 市村は次第に息が苦しくなっていく。
「助けて……誰か……」
 市村は命乞いの叫びを上げる。しかしその声は誰にも聞こえない。
 ついには市村が床に倒れ込む。そして意識を失ってしまった。

 それから3時間後の午後3時すぎ。
 都内世田谷区の伊集院一郎の自宅前に、数台の捜査車両が横付けされている。どれも覆面パトカーである。
 警視庁捜査二課の美藤刑事と東京地検特捜部の森検事正の2人が、重く大きな玄関扉の前に立っている。
 美藤がインターフォンを鳴らし、2人の身分を明かしつつ、この家の主を、任意で警視庁へ連れて行きたい旨を申し出た。
「すぐ支度させます」
 家族らしい声があっけにとられるぐらい従順に、取り調べに応じることを告げた。
 しばらくの後、玄関扉がギギギと観音開きに開くと、中から和服姿の伊集院一郎がゆっくりと出てきた。そしてまずは森を、続いて美藤を見る。
「さあ、行こうか」
 伊集院は全く動じることもなく、美藤が開けた後部座席のドアの向こうへと乗り込んでいく。
 助手席には森が、そして伊集院の隣には美藤が乗り込む。全員の乗車を確認すると、美藤が運転手役の若い刑事に、「出してください」と告げる。
 車は、サイレンを鳴らすことなく静かに滑り出す。そして警視庁へと向かっていく。
 拍子抜けするほどのあっけない任意同行に、森は、ようやく、マスコミの姿が全くないことに気づいた。
「美藤くん、ダメじゃないか。こういう時は、広報を通じて、記者クラブの連中に取材させてあげないと。せっかくの明日の朝刊の一面記事ネタがもったいない」
 森が心から残念そうに後ろを振り返った。
「そうですね。申し訳ございませんでした」
 美藤が小さく頭を下げる。
 その隣、伊集院はピクリとも動かず、胸を張ったまま、真っ直ぐに前方を見据えている。もしかしたら逮捕されてしまうかもしれないなどという不安など、微塵も感じさせない風格だった。
 数十分後、伊集院を乗せた覆面パトカーは、警視庁の地下駐車場へと滑りこむ。
 まず、助手席の森が降りる。
「伊集院さんを捜査本部の取調室にお連れしておいてください。私は、一度、地検に寄ってから戻ってきます。それから取り調べに立ち会いますので」
「かしこまりました」
 美藤が森に敬礼する。
 森はそのまま、地上フロアへとつながるエレベーターに乗り込んだ。

 小一時間後、地検で所用を済ませた森は、警視庁へと戻ってくる。
 そして捜査二課の取調室を開ける。
 しかし。
 誰もいない。慌てて、美藤の携帯番号をタップし、電話すると、伊集院は捜査一課の会議室にいるという。
「どうして捜査一課なんかに?」
 首を傾げる森だったが深くは考えず、フロアを変え、捜査一課の会議室のドアを開けた。
 なるほど、目の前に伊集院一郎が座っている。
 だがおかしなことに、記者クラブの連中も伊集院の後ろにズラリと居並んでいるではないか。
 東京日報からは、相沢キャップ、八田、山崎、浅野、伊那の5人。
 新日タイムスからは、熊田キャップ、荒木、青海の3人。
 中央日日からは、浦瀬キャップ、白石の2人。
 毎朝新聞からは、鶴岡キャップ、亀田の2人。
 総勢12名の事件記者たちが、伊集院の背後に横一列に並んで立っているのだ。異様な光景だった。
「美藤くん、これはどういう取り調べなんだ? まだ正式に逮捕したわけじゃあないんだぞ。新聞記者連中なんか追い出したまえ」
 森は、記者連中を追い払うような手振りをし、外に出すよう、美藤に命じる。
 しかし美藤は、
「検事正のおっしゃる通り、正式な逮捕はまだです。逆に、まだだからこそ、今回は、事件捜査に協力してくれた桜田記者クラブのみなさんに同席してもらうことにしたんです」と言ってのける。
 森は怪訝そうに首を傾げる。美藤の言っている意味が全く理解できなかった。
「美藤くん、君は何を言っているんだ?」
「今朝の新聞を読まれましたか、検事正?」
 突然、記者連中の中の一人が一歩前に出て、喋り始める。東京日報の相沢という男だと、森にはすぐ分かった。
「読んだよ相沢くん。今朝も毎夕新聞の一人勝ちだったね。ほら、こうして、毎夕新聞の一面通り、伊集院一郎さんが任意の取り調べに来てくださった」
 森は、あえて毎夕新聞以外の紙面については語ろうとはしなかった。
「森検事正……どうやら大きな勘違いされているようですね。今朝の毎夕新聞は、誤報も誤報、大誤報をやらかしました」
 相沢が淡々と伝える。
「なにバカを言っているんだ? 相沢くん、君の目は節穴か? 君たちの目の前に座っているのは誰だ? 都議会議員の伊集院一郎じゃないか。そいつが今、こうして捜査課の取り調べを受けようとしているんだぞ。毎夕新聞は誤報じゃない。スクープだよ。見事、大正解のスクープを特ダネでぶち込んだんだ」
 森が失笑しながら言った。
「検事正……やっぱり大きな勘違いをされておりますね。伊集院さんは汚職事件の取り調べを受けに来たわけじゃありませんよ」
「なんだと!?」
 ようやくこの頃になって、森は、雲行きが怪しくなっていることに気づき始めていた。
「お忘れですか? ここは捜査課は捜査課でも、殺人事件担当の捜査一課です。汚職事件の捜査なら、捜査二課が担当するはずです。そうだよな美藤?」
 相沢が美藤に呼び捨てで問いかける。
 ああ、こいつらグルだ。グルになって、オレを糾弾しようとしている。
 森はついに、敵の策略に乗ってしまったことを悟った。
「その通りだよ相沢……伊集院さんは、桜井春乃さん殺人事件と露木功一さん転落死事件の参考人としてお呼びしただけです。そして、検事正……伊集院さんは、あなたがお越しになる前に、とても重要な証言をしてくださいました」
 美藤が森ににこやかな表情で話しかける。しかしその声は厳しく、そして冷ややかだった。
 それまで後ろの席に控えていた人物が立ち上がる。森の立っている場所からは、12人の事件記者たちが邪魔で、その存在を認められずにいた。
「森検事正」
 その人物とは、警視庁刑事部長の根本だった。
「根本刑事部長!」
 森はさすがに絶句する。
 検察官は一般的に刑事たちを指揮する立場にある。そのため、いくら相手が捜査一課長だろうが捜査二課長だろうが、自分の方が上であり、彼らを絶対的権力で下に従わせることができる立場である。だがしかし、相手が、警視庁の中枢部に近い刑事部長ともなると、そうもいかない。
「君を、桜井春乃さん殺害容疑及び露木功一さん殺害容疑及び岩見孝太郎さん殺人未遂容疑及び犯人蔵匿・隠避罪で逮捕する」
 根本の腹の底から揺さぶるようなドスの効いた声が会議室中に響き渡る。
 村田刑事が森の両手に手錠をかける。
 森はおとなしくされるがまま手錠を嵌められるが、キッと根本刑事部長を睨みつけた。
「証拠は? 証拠はあるんでしょうね」
 森は手錠をかけられても尚、悠然と立ち続けている。
 証拠などあるはずがない。これはハッタリだ。
 実行犯の市村が犯人だとする証拠は山程出てくるかもしれない。だが、この私が、このオレが主犯であり、全てのプランを練った張本人だとする証拠など出てくるはずがない。出てこないのは当然なのだ。ハナからないのだから。市村に全てをやらせた。その市村が死んだ今となっては証拠があるはずがないのだ。
 心の中で森はずっと反復している。自分が主犯である証拠が出てくるはずがないと、心の声で、ずっと言い続けていた。
「証拠はこれです」
 相沢が隠し持っていた新聞紙面を広げて見せてきた。今朝の新聞一面だ。
 相沢と伊那が東京日報の一面を広げている。その隣では、新日タイムスの荒木と青海が新日タイムスの一面を、中央日日の浦瀬と白石が中央日日の一面を、そして毎朝新聞の鶴岡と亀田が毎朝新聞の一面を、それぞれ広げて森に見せた。
「なにかと思えば……読みましたよ。岩見孝太郎冤罪説、そして意識回復、夕方取り調べへ。これがどうして、この私が主犯だとする証拠となるんですか?」
 森は、しっかりと立っていた。ラグビーで鍛え上げた体で、壁のごとく立ち続けていた。
「今から4時間ほど前、中野の警察病院のとある病室で奇妙な事件が発生しました。無人のはずのその部屋に、一人の男性が倒れていたんです。その人物は医者でもないのに手術着を着ていたそうです。そしてその人物とは……」
「毎夕新聞の市村キャップだろ? 世田谷から伊集院さんをお連れする車の中の警察無線で聞いたよ。医療用窒素ガスで窒息死したんだって? 意識を取り戻した岩見孝太郎が冤罪で無実だったことが分かった以上、真犯人のヤツにとっては、観念して自殺するしか他なかったということなのかね」
 森はあくまでも悠然と答える。どこまでも白を切り通すつもりだった。計画通り、市村に死んでもらった以上、全ての罪を彼になすりつけることができれば自分は切り抜けられる、森はそう信じていた。少なくともこの瞬間までは。
「おやおや。検事正は、いろいろと思い違いばかりされているようです」
 相沢がニヤリと笑った。
「思い違い? なにが違っているというんだ。岩見孝太郎が無実だったのは、もう分かっているんじゃないのか?」
 森は憮然と反論する。
「ええ。ガンさん……岩見孝太郎は無実です。しかし、それは最初っから分かっていました。検事正が思い違いされているのは別の部分です」
 持って回った言い回しをする相沢に対し、森は次第に苛ついてきた。
「だから、その思い違いがどこなのか、早く言いたまえ!」
「まず、ガンさんの意識はまだ回復しておりません。警察病院の集中治療室に入ったままです。従いまして、彼の証言によって、冤罪が証明されたわけじゃあないんですよ。つまり、あの今朝の朝刊記事は全部、あなたたち2人をおびき出すためのフェイク記事だったということです。そしてフェイク情報がもう一つあります。市村キャップはお亡くなりになっておりません。発見された時は酸素欠乏症で危険な状態でしたが、先ほど意識を取り戻しました」
「なんだとっ!?」
 森が思わず叫んだ。
 各新聞社一斉に同じ記事を一面に載せるアイデアを相沢が思いついたのも、記事を読んだ森が、意識を取り戻したガンさんを始末するべく、市村に命じて実力行動に出るはずだと読んでいた。だからこそ、村田刑事を通じて、竹井検事や美藤刑事にも連絡し、森から、ガンさんの病室確認の連絡が入った際、ニセの情報を伝えるように段取りをしていた。
 ところが森は、相沢たちが想像する、更に上を行く実力行使に出た。
「我々は、てっきり、あなたに命じられた市村キャップが、ガンさんを亡き者にしようと殺しに来るとばかり思っていましたからね。だけど、竹井検事を通じてあなたたちに伝わっているはずの615号室で、待てど暮らせど、市村キャップは現れませんでした……我々の作戦は失敗に終わったと誰もが思っていました。ところが、とんでもない場所で市村キャップが発見されました……真実を知り、我々は正直、あなたの狡賢さに脱帽しました。まさか、別の病室、それも、空気感染隔離病棟の個室で、市村キャップを自殺に見せかけ、窒息死させようとしていたとは……森検事正、あなたは本当に恐ろしいお人だ」
 つまり森は、市村には、岩見を殺すように命じておきながら、その裏で、市村を窒素ガスで窒息自殺に見せかけ、殺す計画を立てていたのだ。そして森はそれを実行に移した。
「助けられた市村キャップが全てを話してくれました……彼、よほどショックだったみたいですよ。あなたから、ガンさんを殺すように命令されて、指定された病室に入ったにもかかわらず、閉じ込められて、窒素ガスで窒息死させられそうになったんですからね。トカゲの尻尾切りってヤツですか。裏切られた怒りで、汚職事件のデッチ上げから、桜井くんを殺したことも、露木さんを突き落としたこと、ガンさんをレンガで殴り殺そうとしたことも、全部、自供してくれました……あなたの命令で動いていたこと、全部です」
 相沢の言葉に、ついに森が崩れ落ちる。
 ガックリと体勢を崩し、そのまま椅子に倒れるように座りこんだ。
 森が墜ちた瞬間だった。

 完落ちした森が完全自供した。
 ほとんど全ては、相沢たちが推理した通りの動機、推理した通りの犯行だった。
 東京地検特捜部に着任してから3年。森は大きな疑獄事件を指揮することもなく、焦っていた。このままだと出世コースから外れ、田舎の地方検察庁回りに戻ってしまうことを恐れていた。そこで目をつけたのが、大物都議会議員で来期の衆議院議員選挙に立候補する予定の伊集院一郎だった。彼には長年、金にまつわるダーティーな噂がまとわりついていた。
 通常、都議会議員の汚職事件は警視庁捜査二課の担当になる。だが国会議員となれば東京地検特捜部の管轄だ。しかし伊集院は、捜査二課が扱うには大物過ぎており、地検特捜部が扱うには小物過ぎた。だからこそ、森は、彼を使って架空の汚職事件をデッチ上げることを思いついたのだ。捜査二課も特捜部もお互いに遠慮して手を出せないどっちつかずな伊集院だからこそ、冤罪を押し付けることができると考えたのだ。
 森は、デッチ上げのパートナーに毎夕新聞を選んだ。毎夕新聞の本社は名古屋で、東京は支社扱い。桜田記者クラブでは一番の新参者で肩身の狭い思いをしていることを知っていた。と同時に、市村キャップがかなりの野心家であることも見抜いていた。彼は、東京支社で特ダネスクープを連発させ、一刻も早く名古屋本社に凱旋帰郷したいと熱望していたのだ。
 森と市村がタッグを組んだ一連の汚職報道は、新聞協会賞を受賞するなど、大きな話題にはなった。なったが、いかんせん、火のないところに煙だけを立ちのぼらせているようなものであり、東京地検特捜部も、警視庁捜査二課も、一向に事件捜査に着手するようにはならなかった。
 仕方なく、森は市村に命じて、次々とデッチ上げたニセ記事を毎夕新聞だけに書かせた。それを受けて、ようやく東京地検特捜部が重い腰を上げはじめようかというその時だった。市村の部下である桜井春乃が、デッチ上げの事実に気づいてしまった。
 春乃は取材パートナーをライバル他社の岩見に求めた。その理由がなんであったのかは、春乃が死んでしまった今となっては、もう、測り知れない。とにもかくにも、春乃と岩見はタッグを組んで、森と市村のデッチ上げ報道、つまり報道癒着を取材し始めた。
 森が、春乃と岩見の尾行に気づいたのは、4月に入った頃だった。森が市村との密談に使っている神田のショットバー近くのホテルに、春乃と岩見の姿を見かけたのが最初だった。
 市村はまずそれを聞いて、2人が恋愛関係にあるのだと笑い飛ばした。だが森は違った。尾行されていることに気づかないフリをして、2人が神田のシティホテルに入り、自分たちが密談するショットバーを下に見る部屋の窓から双眼鏡で見下ろしている事実を掴んだ。
 その後、春乃と岩見が自身の尾行がバレてしまったことに気づいたようで、彼らからの監視はなくなった。
 しかし森は逆に、市村に命じて、春乃と岩見を監視させた。すると2人が、神保町にある岩見のマンションで週に数回、取材会議をしている事実を掴んだ。どうやら春乃は、岩見から合鍵を渡され、自由に岩見のマンションに出入りしている様子だった。
 そこで森は市村に、もう一つ、岩見の自宅マンションの合鍵を作るように命じた。
 記者クラブのロッカーから、マンションの鍵を拝借した市村は、森の命令通り、日比谷の店で合鍵を作った。この際、市村が独断で中央日日の領収書を切ったことが、その後の完全犯罪のほころびとなろうとは夢にも思っていなかったに違いない。
 森は市村に、合鍵を使い、岩見のマンションに侵入し、岩見と春乃が取材で入手したデッチ上げの証拠の数々を盗み出すよう命じた。市村は言われるまま、夜9時過ぎには岩見のマンションへと侵入していた。実はこの日、森は、岩見が朝まで自宅に戻ってこないことを知っていたのだ。
 だがここで森と市村にとって、想定外の出来事が起きる。それが春乃の来訪だった。森は、てっきりこの日、岩見と春乃が行動を共にしているとばかり思っていたのだ。だが現実は違っていたのだ。
 岩見の部屋に、上司である市村の姿を見た春乃は、すぐに110番通報しようとスマホを取り出した。それを見た市村がスマホを取り上げようと、春乃に襲いかかる。揉み合いになる中、しかし春乃はスマホを離さない。上司を警察に逮捕させようとする決意は一向に揺るがない。
 頭に血が上った市村は無我夢中で、近くにあったドライヤーの電気コードを掴むと、背後から春乃の首を絞め上げた。
 我に返った市村は、自分が仕出かした罪の重さにうろたえた。そしてすぐに森に電話する。
 電話を受けた森は、さすがに最初は戸惑った。
 まさか市村が殺人を犯すとは……。しかし現職検事であるはずの森に、市村を自首させる気は毛頭なかった。この犯罪を武器に、更に伊集院一郎を追い詰める妙策を思いついたのだ。その第一弾が、桜井春乃殺しの罪を、岩見孝太郎へと転嫁させることだった。
 そのため、市村に命じ、春乃を全裸にした上で浴槽に沈めた。そして凶器となったドライヤーに岩見の指紋を転写させ、岩見の髪の毛を春乃の指に絡ませた。
 その上で森は市村に命じ、その部屋に隠してあった汚職事件デッチ上げの証拠と、自分と市村との癒着の証拠を探し出させ、全て持ち出させた。
 警察は当然、岩見を春乃殺しの犯人と断定し、逮捕した。
 次に森は、岩見を検察送致の取り調べの最中に脱走させる計画を立てる。
 森は、あの夜、偶然を装って、検察送致尋問中の岩見と顔を合わせる。そして竹井検事が目を離した隙に、岩見の耳元で一言だけ囁いたのだ。
「露木はいつまで生きていられるのかな」と。
 パニックになった岩見が、露木を助けるためになんとしてでも東京地検を脱走しようと試みることも計算済みだった。だから前もって1階裏の非常口の鍵を開けておいた。
 そして岩見はまんまとその策略に乗り、逃走した。それが森の次なる殺人計画につながっているなどとは、夢にも思わず。
 その夜の露木殺しの実行犯も、やはり市村だった。森から渡された背広と靴を身につけ、ホテル正面玄関の防犯カメラに背中と靴だけが映るようにして、そして言葉巧みに露木を屋上へとおびき寄せた。
 ここでも市村は、森に遠隔操作された状態で、露木の背広の胸に、岩見の指紋を転写したシートを押し付け、ポケットに無理やり日記帳をねじ込み、そして突き落としたのだった。
 ちなみにこの日記帳は、強制捜査の際に、森が露木の自宅で発見し、他の誰にも知られることなく勝手に押収、露木の筆跡を真似て偽造したモノだった。その後の科捜研の筆跡鑑定で、ワイロ受諾を記したとされる頁の筆跡だけが露木のものとは違うことが証明された上に、それを書いたボールペンのインクが、今年になって新発売されたゲルインキ成分だということも判明し、完璧にも思えた森の作戦にも穴があったことが分かった。
 田無タワーでの出来事はまるまま相沢たちの推理通りだ。
 こうして森と市村は、2人の尊い人命を消し去り、その罪を一人の罪なき事件記者に着せようとした。
 全ては、報道癒着を隠蔽するため。
 報道癒着が事件を引き起こし、報道癒着が無実の人間に罪を被せ、罪のない人間を死に追いやったのだった。
 市村の連続殺人容疑での逮捕を受け、桜田記者クラブから毎夕新聞の除名が決まった。

 森と市村の起訴が終わり、一段落ついた頃、ずっと意識不明だった岩見がようやく覚醒する。
 目を覚ました岩見を見舞うため、相沢と山崎が警察病院の病室に出向く。そして相沢はずっと聞きたくて聞けなかったことを質問する。
「どうして桜井くんが殺された夜のアリバイを主張しなかったんですか? 行ってもいないインターネットカフェをハシゴしたなんてウソをなんでついたんですか?」
「言えるわけなかったんです。あの時点では」
 ベッドに寝たまま、上半身を起こしただけの状態で、岩見は恥ずかしそうに笑った。
「どういうことなの?」
 相沢と山崎が顔を合わせた。
「あの夜、伊集院一郎さんと会っていたんです」
「え!?」
 相沢は思わず口をポカンと開けてしまった。
「明日か明後日にも東京地検特捜部の強制捜査が入るかもしれないという最中の伊集院さんに直接お会いして、森検事正と市村キャップの報道癒着について、オレが知っていることの全てを伝えていました、あの時は」
「そうか……その事実を正直に警察に告げたとしても、万が一、警察内部に森検事正側の人間がいたとしたら……」
 山崎が険しい表情で言った。
「万が一なんかじゃなくて、絶対、警察にも記者クラブにも、裏切り者が潜んでいると思い込んでいました。オレも春乃ちゃんも」
「そりゃあ、疑心暗鬼になってしまいますよね。だって、新聞社のキャップと検察官が事件をデッチ上げているわけですから」
 相沢はここまで言いかけて、ようやく、全ての謎が解けたとばかりに大きく頷いた。
「ああ、そういうことだったんですね。私を接見相手に選んだ理由も、同じ理由だったんですね」
「実はウチの浦瀬キャップと毎夕新聞の市村キャップは、学年こそ違えども、同じ郷里、同じ高校の出身なんです。だから真っ先に、ウチの閻魔大王が裏切り者なんじゃないかって疑ってしまっていました」
「ウラさんが聞いたら悲しむなあ」
 相沢が苦笑する。
「頭から火を噴いて怒るんじゃないですかね? ばっきゃろー、このオレを信じてなかったのかって、怒鳴られますよ、絶対」
 山崎が肩をすくめる。
 相沢が合点いったように頷きながら、
「森検事正に焚き付けられる形で、東京地検を脱走したのは仕方ないとして、どうして、その後もしばらく逃亡を続けたのか、その理由も同じというわけですか」
「はい。露木さんが自殺に見せかけて殺されたと知り、更に、誰も信用できなくなってしまいました……相さん以外は、もう、誰も。だから、一生逃げ続けてでも、自分一人で春乃ちゃんの無念を晴らしてやろうって……」
 その言葉に、相沢は眉をひそめ、山崎と顔を見合わせるしかなかった。
「それにしても……」
 岩見が、サイドテーブルに置かれた新聞の山から一番上を手に取る。そして一面を広げてみる。例の、『女性新聞記者殺人事件の重要参考人、意識回復。今日夕方から本格取り調べ。冤罪主張か』というあの日の新聞紙面だ。岩見は目を細めながら、自分が冤罪であると記事にしてくれた新聞各社の一面を繰り返し眺めている。
「毎夕新聞を除く記者クラブ全部の新聞社が、よく、この記事を書いてくれましたよね? だってこの数日前に、田無タワーの一件があったんですよね? 絶対、ウチの閻魔大王なんか、もう東京日報と共同戦線なんかやってやるかって怒鳴りちらしていたはずですもん」
「ええ、糾弾大会ではみんなから怒られまくりました」
 相沢が懐かしそうに笑う。
「それなのに、どうして?」
 相沢が山崎と顔を見合わせ、そしてフフフと微笑んだ。
「おチカさんに諭されましてね」
「ひさごの?」
「ええ」
 相沢は思い出していた。
 あの夜、つまり、相沢、山崎、浅野、伊那がひさごの座敷に集まり、事件の真犯人が森検事正と市村キャップだと断定するにはしたが、決定的な証拠が不足している現実を前に途方に暮れていた時のことを。
「いずれにしても、全ては仮説。机上の空論にすぎません。森検事正と市村キャップの犯罪を立証するには証拠が必要です。それも、言い逃れのできない、決定的な証拠が……」
 相沢の言葉に、山崎、浅野、八田、そして伊那が強く頷くのだった。
「だけど、我々には、その証拠を掴む術がありません……困りました」
 相沢が大きなため息をついた。
 そこに、料理を持ってひさごの女将・おチカが座敷に入ってくる。
 おチカは、料理を配膳しつつ、あえて誰に向かって言うのではなく、独り言のように呟いた。
「なにも自分のところだけで戦う必要なんかないんじゃないですかね? 相さんたちには、たくさんの仲間がいっぱいいるじゃありませんか」
「おチカさんや、そうしたいのは山々なんじゃが、ワシら東京日報は、数日前にスタンドプレーをやってしまって、他の新聞社からの協力は難しいんじゃよ。絶対断られるに決まっとるんじゃ。実はな……」
 八田が事情を説明しようとするが、おチカは、それを聞こうとするでもなく、笑顔で、
「頼んでもないのに、もう、断られる心配ですか? 東京日報さんらしくないですわね。事件記者さんたちの友情って、それぐらいのものだったのかしら?」
 おチカのその言葉に、相沢が、八田が、山崎が、浅野が、そして伊那が、ハッとなった。我に返った瞬間だった。
 そうだ。
 なにも一人で戦う必要はなかったのだ。
 次の瞬間、相沢たちは立ち上がっていた。
 彼らの向かった先は、当然のことながら警視庁桜田記者クラブだ。
「クマさん、アラさん、セイカイどん! ウラさん、シロさん! ツルさん、カメちゃん! お願いだ! もう一度! もう一度、力を貸してくれ! 今度こそガンさんを救ってやりたいんです!」
 記者クラブに飛び込むなり、相沢が大声で全員の名前を呼ぶ。そして頭を下げる。何事かと各ブースから記者たちがぞろぞろ出てくる。そして彼らは見た。東京日報の連中が、直立不動に立ったまま、深く頭を下げている姿を。
 この瞬間、あの新聞紙面の協力体制が出来上がった。そして各社一斉のあの一面記事があったからこそ、自身に嫌疑が及ぶことを恐れた森が、市村に全ての罪を擦りつけた上で自殺に見せかけて殺す計画を立て、それを実行するに至ったわけである。
「そうそう、ガンさんの退院を今か今かと首を長くして待っている人がいるんですよ」
 帰りがけに、相沢が思い出したように言った。
「誰ですか? 美人ちゃんですか?」
「残念ながら男だ。ウチの伊那っていう新人記者だ」
 山崎が苦笑交じりに答える。
「はあ? その彼がなんでボクの退院を? ボクと何か関わり合いがあるんでしょうか?」
「全くないんだが、要するに、ガンさんの退院祝いは当然、ひさごでやる予定なんだけどね……彼は、ひさごのやす子ちゃんに夢中でね。といっても、これまでも何度かひさごに連れていっているんだが、タイミング悪く、やす子ちゃんのバイトの日に巡りあっていないんだ……彼が自腹で行けるほど、ウチは給料がよくないからね。ということで、伊那ちゃんとやす子ちゃんが巡り合うためにも、ガンさんには一刻も早くよくなってもらわないといかんと、そういうわけだ」
 相沢が岩見の肩をポンポンと軽く叩いた。
「なんですかそれ? でもまあ……はい。早く退院できるよう、頑張ります」
 岩見が感謝を込めた表情で相沢に頷いてみせた。
「ガンさん……本当にお疲れ様でした」
 相沢がにこやかに微笑んだ。
「相さんも……オレをずっと信じてくれて、ありがとうございます。オレ、あの時、相さんを接見相手に選んでよかったと今でも思っています」
 岩見がしんみりしつつ真剣な表情で告げた。目にうっすらと涙が浮かんでいた。
 相沢は、もう一度、肩をポンと叩く。
「さ、仕事仕事。明日のスクープのためにちょっくら取材してきますか」
 相沢が背伸びをしつつ言った。
「ウチも負けませんから」
 岩見も笑顔でガッツポーズを作った。
 相沢と岩見、そして山崎が頷き合う。事件記者同士の笑顔がそこにあった。

《終》

事件記者[報道癒着]
第12章(その3)最終章

 
 

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